マーティン・ブラウンの経歴

マーティン・ブラウンは1964年にドイツのカルスルッフェで生まれた。ここは、ドイツの伝統的な時計作りの中心地の一つであるフォルツハイムからわずか24キロほどのところにあるバーデン地方最大の都市である。ブラウンの父は彫金師カール・クリスチャン・ブラウンで、時計ケース製造のスペシャリストとしてその名を知られていた。ブラウンはこうして幼い頃から時計の世界へといざなわれていったのである。

マーティン・ブラウンは、フォルツハイムの名高い時計学校を1983年に主席で卒業し、正式な時計師となった。その後、その名を知られた時計会社で修行を積み、1991年27歳でマイスターウオッチメーカーの資格を取得。彼が最終試験のために作った現代的なテーブルクロックには、彼が自ら開発したエイトデイ・ムーブメント、リパブリカン・カレンダー(1792年から1806年まで使われていたフランス式のカレンダーシステム)、日付、正確なムーンフェイズ、そして均時差表示がついていた。

父カール・クリスチャン・ブラウンの会社が経営危機に陥り、いっぽうマーティンがマイスターの資格を取ったことがきっかけとなり、二人は1991年から協力して時計の製作を始めた。メカニカル・ルネッサンスが始まったのはまさにこのときだ。フォルツハイム製やその他の高級時計会社の興味深くて珍しいヴィンテージ物の時計に出会った二人は、その正確な仕様を持ちユニークなケースに入ったそれらの時計の修復を始めた。

やがてヴィンテージ物のムーブメントに慣れ、修復技術を身につけたマーティンは、パーペチュアルカレンダーや、ミニッツリピーターといった複雑な機構を持った時計やクロノグラフに出会う。当時の彼の傑作は、1905年製のA.ランゲ&ゾーネのクロノグラフ付きミニッツリピーターだった。ランゲが3個しか作らなかったムーブメントを、マーティンはわずか200時間で新品同様にし、この貴重な時計のために18カラットのローズゴールドのケースを作った。現在、この会社はふたりのイニシャルにちなんでCCMと呼ばれており、マーティン・ブラウンはクラシック時計のスペシャリストとしての名をほしいままにしている。

ウオッチメーカーのマイスターになるために研究をしていたマーティン・ブラウンは、日の出・日の入りの時刻を示す時計の製作にも取り組み始めていた。父が引退を決めたあと、ほぼ5年の月日をかけてようやく作り上げたのが、2000年11月に発表されたイオスモデルである。同時に彼は、自分のデザインした時計のみを扱う時針のブランドの立ち上げを発表する。

マーティン・ブラウン&フランク・ミュラー・グループ

マーティン・ブラウンの名が知れ渡ったのは、けたはずれに高価な時計であるというだけでなく、彼の独特の創造性や比較にならないデザインにもよる。常に新しいアイデアを生み出してきたマーティン・ブラウンは、最近は国際的にも名を知られるようになってきた。これが、彼のブランドがジュネーブのフランク・ミュラー・グループの一部となった理由のひとつである。

マーティン・ブラウンというブランドは彼の一つのステップであり、正しい選択であったといえよう。マーティン・ブラウンにとって、この選択は、未来への大きなステップであるからだ。これは創造性と個性と独自性に基づいたブランド戦略、ブランド・ポジショニングの一部であり、将来の発展への新たな可能性を考えるうえで、欠かせないものである。「わたしのアイデアやプロジェクトが実現できるのは、すべてフランク・ミュラー・グループのサポートのおかげだ」と、マーティン・ブラウンは言う。「わたしたちはすばらしいチームであり、未来は約束されているも同然だ」

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